松山捕虜収容所病室の記録によると、明治37年(1904)5月から39年(1906)1月までの間に滋養品として医務室で消費した牛乳は、なんと6824万8300グラム、捕虜の収容数の増大とともに品薄になった牛乳の不足分の補充に臨時に購入した粉ミルクは4836缶、卵が23万2074個、牛肉が22万1200グラムにのぼった。
当時の将校用のメニューは・・・
◎白パン半斤、砂糖、紅茶、昼食材料が白パン半斤、牛乳2勺5合、麦粉35匁、人参4匁、牛肉70匁、きゅうり、塩麻、バター、ジャガイモ、トマトソース、玉ねぎ、砂糖、紅茶、スープ、茄子、コショウ、卵など
白パンは、当初は松山市菅町4丁目の業者に製造させていましたが彼らの口に合わなかったようで、別の白パン作りの経験のある業者に変え供給した。
当初は日本側で調理をしていたが美食家のロシア兵達には「お気に召さなかった」ようで明治37年9月11日以降は、直接食材を渡しロシア兵の下士官が調理した。
将校達は松山市内を自由に外出できるため市内の食料品店で自分好みの商品を買ったり、洋食店で外食しっためどこの店も満員で繁盛したと記録に残ってっている。
その他、収容所内の売店で軍医の許可があれば嗜好品も購入することができたようで「朝日ビール」「万歳ラムネ」「シャンパン」「コニャック」「ウヰスキー」「ハム缶詰」「炭酸水」なども売っていた。
捕虜というと、虐待され食事も少量で強制労働で痩せ衰えた兵士の印象がありますがここ松山のロシア軍捕虜達の写真史料を見ても、身なりも小綺麗で健康そうに見え健康管理が行き届いたよう、さすが招かるざる客、敵国の捕虜にまで「おもてなしをしたのにはビックリである。
過去のすべての歴史において、敵と戦った兵士がこれほど親切で寛大な敵に巡り合ったことは一度もなかったであろう。
さすが「おもてなし」をスローガンに掲げている松山ならではの逸話だ、いくら日本がハーグ条約を順守し、紳士的に捕虜を扱ったといっても、これこそ松山人気質のなせることである。
松山生まれの勝田銀次郎が博愛の精神でロシアの子供達の帰郷に力を貸したのもこの松山人気質であったように感じられてならない。
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